Category: 08:HondaとBARの歩み
HondaとBARの歩み
▼Honda、栄光のF1史
HondaはToyotaとかなり違い、かなりの歴史と実績をF1に残している。
HondaがF1参戦を開始したのは1964年。当時はシャシー開発も手がけるフルコンストラクターとしての参戦だった。参戦当初からエンジン開発技術の高さを見せつけ、他を一歩リードするエンジンを生み出し続けていた。
第二期F1活動と呼ばれるのは1983年からの10年間。このときHonda黄金時代を迎えることとなる。このころからエンジン供給に注力し、WilliamsやMclarenと組んでいた。特にMclaren時代にはあのアイルトン・セナを擁し、5年連続コンストラクターズランキング1位や、1シーズン16戦15勝など、驚異的な速さをみせつけていた。
▼BARのF1参画
BARは1997年にクレイグ・ポロック、レイナード・レーシング・カーズ、そしてブリティッシュ・アメリカン・タバコによって組織された。本拠地はイギリスのノーサンプトンに近いブラックリーという場所だ。
BARはブリティッシュ・アメリカン・レーシングの略であり、主な広告スポンサーにブリティッシュ・アメリカン・タバコがなっている。F1中継などでBARのクルマを目にすると思うが、ラッキーストライクの赤丸が目を引くことだろう。
F1チームとしてBARがデビューするのは1999年シーズンから。組織されてからわずか2年後のことだ。ドライバーとしてビルヌーヴとゾンタをすでに迎えており、開幕戦のオーストラリアグランプリで初レースを経験した。年間を通じてポイントを獲得することはできなかった。
▼HondaとBARのかかわり
Hondaの第三期F1活動は2000年からはじまり、今に至るものである。
HondaはBARとパートナーシップを組み、2000年からF1に復帰した。ビルヌーヴ、ゾンタと引き続きドライバー契約を結び、20ポイントを獲得しコンストラクターズランキングで5位となった。前年の0ポイントからすればかなりの躍進であり、Hondaエンジンの高性能ぶりがうかがい知れる。ビルヌーヴも安定して入賞する活躍をみせ、ドライバーとして才能も開花したようだった。
翌2001年はビルヌーヴとパニスというドライバー陣で戦った。表彰台を2回経験するなどしたが、シーズンを通じては成績を落してしまった。またこの年からHondaはJordanチームにもエンジン供給を開始し、こちらのドライバーにはハインツ・ハラルド・フレンツェンとヤルノ・トゥルーリを迎えた。最終的にはJordanが19ポイントで5位、BARが17ポイントで6位となっている。
2002年になるとJordanのドライバーに佐藤琢磨が登場する。パートナーはジャン・カルロ・フィジケラとなった。フィジケラはシーズン中盤に3戦連続表彰台を飾るなど、チームの原動力となる走りを見せている。BARのドライバー勢に変化はなかった。2002年シーズンはJordanが9ポイント6位、BARが7ポイント8位となっている。
▼BARへエンジンを独a占供給
2003年、HondaはBARにエンジンを独占供給することを決定。これにより佐藤琢磨はJordanチームを離れることとなったが、BAR-Hondaにテストドライバーとして受け入れられる。琢磨はこの年クルマ開発に携わり続けた。シーズン最終戦の日本グランプリでビルヌーヴの代わりに急遽参戦し、6位入賞を果たした。
BAR-Honda飛躍の年は2004年に訪れる。前年度よりジェンソン・バトンがドライバーとして加わり、世界チャンピオン経験者であるビルヌーヴを凌ぐほどの活躍を見せていた。この年からは佐藤琢磨が正ドライバーとして加わり、11回の表彰台を獲得した。常勝軍団のフェラーリには一歩及ばなかったものの、119ポイントを得て堂々のコンストラクターズランキング2位となっていた。
さらに日本人にとってもっともうれしかったことは、第9戦アメリカグランプリで佐藤琢磨が3位表彰台を飾れたことだろう。Jordan時代の2002年は通算2ポイント、2003年は日本グランプリの3ポイントときていた佐藤琢磨は、この年見事34ポイントを獲得し、ドライバーズランキング8位まで上ってきていた。琢磨の飛躍、Hondaエンジンの大活躍と、2004年は21世紀になってもっともジャパンパワーが炸裂した年だろう。
2005年になり、HondaはF1参戦体制をさらに強化した。BARに45%資本参加し、一層の連携強化を画策。今シーズンよりレギュレーションが変更され、2レース1エンジンという規定になり、エンジンサプライヤーのHondaとしては技術開発のしがいがあるシーズンとなったことだろう。
▼Honda、栄光のF1史
HondaはToyotaとかなり違い、かなりの歴史と実績をF1に残している。
HondaがF1参戦を開始したのは1964年。当時はシャシー開発も手がけるフルコンストラクターとしての参戦だった。参戦当初からエンジン開発技術の高さを見せつけ、他を一歩リードするエンジンを生み出し続けていた。
第二期F1活動と呼ばれるのは1983年からの10年間。このときHonda黄金時代を迎えることとなる。このころからエンジン供給に注力し、WilliamsやMclarenと組んでいた。特にMclaren時代にはあのアイルトン・セナを擁し、5年連続コンストラクターズランキング1位や、1シーズン16戦15勝など、驚異的な速さをみせつけていた。
▼BARのF1参画
BARは1997年にクレイグ・ポロック、レイナード・レーシング・カーズ、そしてブリティッシュ・アメリカン・タバコによって組織された。本拠地はイギリスのノーサンプトンに近いブラックリーという場所だ。
BARはブリティッシュ・アメリカン・レーシングの略であり、主な広告スポンサーにブリティッシュ・アメリカン・タバコがなっている。F1中継などでBARのクルマを目にすると思うが、ラッキーストライクの赤丸が目を引くことだろう。
F1チームとしてBARがデビューするのは1999年シーズンから。組織されてからわずか2年後のことだ。ドライバーとしてビルヌーヴとゾンタをすでに迎えており、開幕戦のオーストラリアグランプリで初レースを経験した。年間を通じてポイントを獲得することはできなかった。
▼HondaとBARのかかわり
Hondaの第三期F1活動は2000年からはじまり、今に至るものである。
HondaはBARとパートナーシップを組み、2000年からF1に復帰した。ビルヌーヴ、ゾンタと引き続きドライバー契約を結び、20ポイントを獲得しコンストラクターズランキングで5位となった。前年の0ポイントからすればかなりの躍進であり、Hondaエンジンの高性能ぶりがうかがい知れる。ビルヌーヴも安定して入賞する活躍をみせ、ドライバーとして才能も開花したようだった。
翌2001年はビルヌーヴとパニスというドライバー陣で戦った。表彰台を2回経験するなどしたが、シーズンを通じては成績を落してしまった。またこの年からHondaはJordanチームにもエンジン供給を開始し、こちらのドライバーにはハインツ・ハラルド・フレンツェンとヤルノ・トゥルーリを迎えた。最終的にはJordanが19ポイントで5位、BARが17ポイントで6位となっている。
2002年になるとJordanのドライバーに佐藤琢磨が登場する。パートナーはジャン・カルロ・フィジケラとなった。フィジケラはシーズン中盤に3戦連続表彰台を飾るなど、チームの原動力となる走りを見せている。BARのドライバー勢に変化はなかった。2002年シーズンはJordanが9ポイント6位、BARが7ポイント8位となっている。
▼BARへエンジンを独a占供給
2003年、HondaはBARにエンジンを独占供給することを決定。これにより佐藤琢磨はJordanチームを離れることとなったが、BAR-Hondaにテストドライバーとして受け入れられる。琢磨はこの年クルマ開発に携わり続けた。シーズン最終戦の日本グランプリでビルヌーヴの代わりに急遽参戦し、6位入賞を果たした。
BAR-Honda飛躍の年は2004年に訪れる。前年度よりジェンソン・バトンがドライバーとして加わり、世界チャンピオン経験者であるビルヌーヴを凌ぐほどの活躍を見せていた。この年からは佐藤琢磨が正ドライバーとして加わり、11回の表彰台を獲得した。常勝軍団のフェラーリには一歩及ばなかったものの、119ポイントを得て堂々のコンストラクターズランキング2位となっていた。
さらに日本人にとってもっともうれしかったことは、第9戦アメリカグランプリで佐藤琢磨が3位表彰台を飾れたことだろう。Jordan時代の2002年は通算2ポイント、2003年は日本グランプリの3ポイントときていた佐藤琢磨は、この年見事34ポイントを獲得し、ドライバーズランキング8位まで上ってきていた。琢磨の飛躍、Hondaエンジンの大活躍と、2004年は21世紀になってもっともジャパンパワーが炸裂した年だろう。
2005年になり、HondaはF1参戦体制をさらに強化した。BARに45%資本参加し、一層の連携強化を画策。今シーズンよりレギュレーションが変更され、2レース1エンジンという規定になり、エンジンサプライヤーのHondaとしては技術開発のしがいがあるシーズンとなったことだろう。